蘇民将来子孫也 蘇民祭 日本に古くからある風習です 新型コロナの厄払いにも
蘇民将来子孫也の厄除け
蘇民将来子孫也とは
蘇民将来とは、日本各地に伝わる説話を起源とする民間信仰です。こんにちでも「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で授与されており、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰されています。
また、除災のため、住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を貼っている家も少なくありません。
蘇民将来の説話とは
「備後国風土記」の逸話によると、(素盞嗚尊)スサノオノミコトとが一夜の宿を借りようとしたところ、その土地に住む裕福な弟の巨旦将来(こたんしょうらい)は断わり、貧しい兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は粗末ながらももてなしをしました。
年を経てスサノオノミコトは再びこの地を訪れ、「蘇民将来之子孫」といって茅の輪を腰に着ければ疫病から免れると伝えました。
疫病がはやり、みんなは亡くなってしまいましたが、その教えのとおりにした蘇民将来の娘は命を助かったといいます。
この故事に基づき、家の門口に「蘇民将来之子孫」などと書いた御札を貼っておけば、疫病の災いから難を免れ、家が栄えるという信仰に結びつきました。
蘇民将来の起源(登場人物は「蘇民」と「スサノオ」)
この話のなかに出てくる蘇民将来がどのような神仏を起源としたものであるかは今もって判然としていないそうです。
蘇民・将来?
蘇民が名前、将来が姓。疫病で滅ぼされた弟が巨旦将来というのですから、兄は名前が蘇民ということになります。
でも、蘇民将来という姓名にはまったく日本人らしさが感じられません。
「蘇」という漢字も今の日本ではあまり使われていません。
蘇という名前でまず思い浮かべるのは「蘇我氏」。
乙巳の変で滅ぼされた古代の有力豪族です。
乙巳の変
中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。
この蘇我氏は朝鮮からの渡来人という説もあります。
蘇民は楚民?
あるいは、その地方は現在「江蘇省」と呼ばれています。
ここに、蘇という地名がみられます。
ソミンという音からの連想にすぎないが、「蘇民将来子孫也」は先祖が蘇民で私はその蘇の民の子孫であるという表明をかんじさせる。
つまり、いまの、江蘇省あたりで生活をしていた人間が戦乱を避け、日本にまで逃れてきた。その子孫です、という意味なのではないでしょうか。
なぜなら、ちょうど、日本の弥生時代に 中国では
日本の弥生時代
紀元前5世紀中頃に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がりました。
初期の水田は、佐賀県唐津市の菜畑遺跡、福岡県の板付遺跡、那珂遺跡群(福岡市博多区)、江辻遺跡群(糟屋郡粕屋町)、曲り田遺跡(糸島市)、野多目遺跡群(福岡市南区)などで水田遺跡や大陸系磨製石器、炭化米等の存在が北部九州地域に集中して発見されています。
これが、弥生時代のはじまりです。
1981年(昭和56年)青森県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡から広範囲に整然とした水田区画が見つかっています。
その後、弥生時代前期には東北へと伝播し、青森県弘前市砂沢遺跡では小規模な水田跡が発見され、中期には、中央高地の松本盆地、千曲川流域までひろがりました。
中部地方の高地にひろがるまでには200年という期間がかかりましたが、その理由の一つに感光性のモミが日照時間の短い中部高地では育たないということが挙げられます。水稲農耕は、全般的にはかなりの速さで日本列島を縦断伝播の後、波及したといえます。
そのころ、中国では、
呉王夫差はBC473年に越王勾践に敗れ自決、呉は滅亡し、呉人は山東半島南の徐州方面に逃亡。楚の威王熊商はBC334年に越王無彊を破り、越を滅ぼす。
越人は主に南方インドシナ半島に逃亡するが、北方の徐州方面に逃亡してきた越人が呉人を追いやり、呉人は満州、朝鮮半島南部、九州、中国、四国に逃走した。
楚はBC223年に秦に敗れ、BC221年に秦始皇帝が全国を統一。秦の租税や役務が厳しすぎて越人の一部は朝鮮半島西部、九州、四国に逃亡。
漢人や楚人の一部もインドシナ半島、台湾、朝鮮半島東部、九州、中国、四国に逃亡。
BC206年に秦王朝が滅びると、楚王の項羽と漢王の劉邦が争い、楚漢戦争が始まる。
江南人どうしの戦争と、漢族からの攻撃を受けて、江南人は大陸南方やインドシナ半島、台湾、日本列島、朝鮮半島などに逃亡した。
このようにBC4世紀からBC2世紀にかけて、江南人や漢人が波状的に日本列島にやってきて弥生時代が始まります。
すさのおのみことは、中国系?
素戔嗚系・大国主系は民族的には縄文時代に日本に渡来した中国系の人種ではないでしょうか。その一つの流れが四面楚歌で有名な楚の人。
呉・越・楚などの江南人は、北方黄河流域(中原の漢族)とは人種も文化も違います。
移動手段も違い南船北馬です。
八坂神社の茅の輪は、ご祭神の素戔嗚尊(すさのおのみこと)が、貧しい生活のなか善行を施した蘇民将来(そみんしょうらい)という男に「世に疫病流行すれば、蘇民将来の子孫といい、茅の輪をつけておれば免れさせる」と約束されたことに由来するもの。
茅の輪は、茅で作られた直径2メートルほどの輪で、くぐると疫病を避けられると信じられています。
本殿近くに設えられた茅の輪のそばの看板には、「素戔嗚尊(スサノヲノミコト)の神域にて茅の輪をくぐることで、現在流行の新型肺炎感染症なる疫病にかかることなく、無病息災にお過ごしになられること心よりご祈念申し上げます」とのメッセージが書かれています。
新型コロナウイルスによる感染拡大の猛威を受け、神社が急遽設えたのが、この茅の輪でした。
実は、八坂神社は、疫病よけ祈願に千年以上の歴史がある神社。
「夏越祭(なごしさい)」以外の時期に茅の輪が置かれたのは、コレラが流行した明治10年以降初めてで143年ぶり。
「蘇」という食べ物・今新型コロナの中ちょっとしたブームです
蘇(そ)は、古代の日本(飛鳥時代~平安時代[1])で作られていた乳製品の一種で、乳汁をかなり乾燥させた乳加工食品と考えられています。そして、文献には見えるが製法が失われた「幻の食品」となっています。
不明な部分の多い食品ではあるが、諸説に共通しているのは「蘇は乳を煮詰めた乳製品で美味しいもの」ということ。
『延喜式』には、生乳一斗を煮詰めると一升の蘇が得られる旨の記述があります。
そんな「蘇」がコロナ蔓延の中 注目されています。
発端はSNS。小中学校が一斉休校する中、余った給食用の牛乳を大量消費できるレシピが注目を集めました。
「蘇」は牛乳を簡単に言えば10分の1に煮詰めたもののようです。
普段はそんな、もったいないことはできませんが、酪農家が事業存続を危ぶむほど困っている中での動きです。
チーズのようにも思えますが、別物のようです。
ジャムをつけたりクラッカーにのせたり、生ハムと組み合わせたりと様々工夫を凝らして食べているようです。